AdSense

2014年5月16日金曜日

廃墟としての遺跡~その極ポンペイ


廃墟を考える上で、「遺跡」を取り上げてみる。
わたしはこれを廃墟の究極形と考えている。

遺跡、特にポンペイ!

遺跡といえば、そのエンタシスの円柱とともにギリシャの遺跡群がすぐに思い当たるが。

ポンペイは2000人余りが一瞬にして噴火の火砕流(火災サージ)に呑み込まれ絶命したと言う。
そして、2000年の時を 経て遺跡とともにその姿を残したヒトが表情に至るまで、鮮やかに3Dテクノロジーにより蘇った。


発掘時、灰燼の殻を破られ石膏を流し込まれたヒトはどう思ったか?

おーい。


ほんの暫くの間、思念の塊として昏がりに透明なままとどまってきたが、その思念は早速消え去る肉塊を尻目に、どのような変遷を遂げて来たのか?
ただその根拠を失い、微睡み続けていたのか?その質量はどう変わったのか?それとも単に雲散霧消してしまったか?
そもそも時間が、時間そのものが閉じ込められたのだ。永遠が封じ込められたのだ。そこに変化を思う事自体、矛盾か。

この石膏像群。人の作ったものではない。何ら表現の加わらない、それぞれの魂をそのまま可視化したものである。
それは、有る意味遺跡自体が人間の思想そのものを永遠のサンプルとして保存したもので有ることをわれわれに思い起こさせてくれる。
今わたしが普通にそこに住んでいてもおかしくない。
普通に移り住んでもそのまま生活できる。

苦悶に身を捩る男性。
何故また、噴火後に帰ってきた?
ああ、お金が気になったか。
よく分かる。
ヒトは歴史の時間で変わるわけではない。
長い時を経て変わるわけではない。


何も変わらないことが、虚しいのか哀しいのか、面白いのか。
変わらぬまま、いや、永遠のまま忽然と丸ごと消え去る。
遺跡のその永遠性は廃墟の際たるものと思える。

ポンペイは人のそれぞれの想いまで鋳型に封じ込め、このような廃墟のなんであるかを極限的に開示している。



0 件のコメント:

コメントを投稿