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2014年5月13日火曜日

廃墟への憧憬ー2


廃墟はともすれば、中に入れる死体であり、蝉の抜け殻のようなものと言ってよい。

幼いころよく遊んだ、広場に転がった下水管の筒やもっと大きいスチール製の管の中の秘密基地。
何の用途も見つからないが、何かが落ちている、きらっと光るものが拾える空き地。
よくレンズを拾った。蝉のきれいな抜け殻もいっぱいあった。
この余白や余地、ちょっとした冷やりとする風が通る暗がりこそが、廃墟である。
そこは、お墓のように、すーっと静かに気持ちが透明になる。

うちの父の眠る墓地でも、毎日真新しい花束が置かれている墓がある。
手向ける人は常にそこで死を思い、所謂(藤原新也言うところの)死想を深めているすがたが感じられる。
いつもの仕草で墓を奇麗に洗い花束を取り替える固有の儀式をとりおこないながら。
その「跡」からにおい立つメメントモリ。


「死」を少年時代のように眩暈を覚えつつも優しく身近に感じる事が出来る場所が「廃墟」である。
そういうことにする。

「少年期」と「死」は一番瑞々しい繋がりをもっており、その頃の想い(関係性)に無意識的な憧れを抱くとき、その対象として表象される画像が「廃墟」である。

絵に描いたような廃墟もあるが、日常の空間にもそのような時間性を湛えた場所もできる。「廃墟性」をもった場所として。そこには「死」が色濃くあったかく漂っている。
つまり、ここで日常に廃墟性をひと際感じる場所を、「見える廃墟」とする。
そこにいるヒトの無意識的な意思、趣向による関係性はその生成に対しやはり大きい。
自然に物の置かれ方、部屋の構成・流れもふさわしい作りに落ち着く。
そして時間流の親和性がとれていること。

ただそのような想いとは裏腹に、その関係性の実現できない時間性がヒトの神経・精神を疲弊させる空間として固着する。
何というか、単なる箱モノの中で、死が見えない(感じられない)時間が間延びしてそのまま、立ち腐れしてゆく。
そんな部屋が至る所にワームホールみたいに点在する。いや、もう今や偏在するか。
それは「見えない廃墟」として病をひたすら育む。
この時間性の治療は、精神科医、建築家、上司、人間関係、そのビルの管理者にどうしてもらえるものでもないが、関係は深い。


ひとつ。そこに建築そのものの思想はとても大切だと思われる。


「廃墟」に何か憧れる、という漠然とした気持から、その廃墟性をいろいろな場所に感じつつ、所謂「廃墟」、ひょんなところに「見える廃墟」、蟻のように多分増殖している「見えない廃墟」を実に直観的に見てきた。


わたしとしては「廃墟」という「場所」の起源はあたりが付けられた気がする。
しかし、病理学的なところは手に着かない。時間性、記憶の大きさは分かるが。
廃墟テーマの本でも読みたい気がするが、その類いの本は全くと言ってよいほど、持っていない。
(建築と言えばルドルフ・シュタイナーはあった、、、参照出来ていない。ミース・ファン・デル・ローエもあった。)


今回も手がかりなしで感じたことだけをを元に考えてみた。




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