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2014年5月1日木曜日

決定的瞬間 ~ アルフレッド・スティーグリッツ

「決定的瞬間」と写真は同義である。その写真集の題名は、アルフレッド・スティーグリッツだからさらにぴったりな題となる。これは、彼を離れ、写真とは何かを語る標語的な形で流行ったと思う。
写真の属性から言って、写真とは何といっても決定的瞬間を撮るもの、と言える。
写真は光学的に瞬時にその場を銀粒子に固定する。
現像時のテクニックも入るが。
印刷物にされれば網目状に定着する。


写真とは、、、。
写真家からすれば、狙ってシャッターを押して場面を切り取る以外のなにものでもない。
基本はそれである。
スティーグリッツはある意味それに賭けている。

ニューメキシコ上空の月を撮った、アンセル・アダムスはグレン・グールドのように現像過程にまでの全工程に完璧に拘ったが、スティーグリッツは捉える事、もっと言えばその場を瞬時に組織することに賭けている。
賭けているではなく、第六感というのでもなく、もっと受動的な、もっと他力な、自分を放下するようなかたちで、捉えている。
言語矛盾であるが、そんな感じでその場を組織している。

ジョン・ケージのチャンス・オペレーションのような方法論?
いや、方法論で撮っている訳ではない。
「わたしは、写真というものにつては、何も分からない」(スティーグリッツ)
となると、「天才」としてしか処理できなくなるが、語ることの実に少なかった写真家のやはり何かをこちらも直覚したい。

こんな全体性を撮りこむ予知能力のメカについて。
まず事態に対し先に行っていなければ、この組織化は無理か。

よく、腕試しのように、素人写真家ががんばって撮る”決定的瞬間”とこれらの写真はどう違うか?
この辺を見比べつつ、確認できるものか?
素人写真なら、手近に何枚もその手のものがある。

まず、スティーグリッツのものがモノクロであるため、抽象性があり文学性を帯びている。また色に関係なく絵に気品があり、重厚であり、その場全体を撮っている。素人のカラー写真が異様に生臭くキッチュで生物学の説明写真ならよいが、場という意識はなく、そこに一片の情緒や詩的な香りもないことが圧倒的に多い。

スティーグリッツが場所の写真であるに対し素人物はことごとく対象の犬のみ、だったりする。
同時性という世界の成り立ちへの洞察がどうやらスティーグリッツの構えの基本としてあるように思える。
空間の切り取ではなく、時間の芸術としての写真を極めた人なのかも知れない。







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