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2014年4月28日月曜日

メメントモリ ~ 藤原新也

これはまず、決して普段の日常生活で見ることは叶わぬ光景です。
夢の中でもそうは見ないものでしょう。

死体だけなら、、、
自分が殺人現場に居合わせたり、遭難者を山や樹海のようなところで発見してしまったり、突然ほど近い場所にいた人がクマに襲われた、とかいう事件が突発的に起きれば、目にするでしょうが、その時は自分の身もかなり危機的状況に置かれているでしょうけど。
確かに今は、通り魔とか飛ばしすぎや気を失った運転手の乗っている車が突っ込んでくるという避けがたい事件が多くなっています。
特別な場所ではなく、極めて日常的な場所でそれは起きています。

しかし、この写真集にあるように、普通の道端や水浴しているすぐ近くにプカプカ人(行者)の屍が放置されていて、それがなぜかその場所に親和的で、きれいに見えていたりすると、死が大変近い場所なんだな、とその光景が自然に身に沁みてきます。
死体が写っていなくても、彼岸の光景を想わせるあまりに美しい畑など。
何かほっとする清く、牧歌的な風を感じます。
藤原新也の写真ー光画がすべて温かい救いに満ちた光を放っているからでしょう。

人だけでなく、犬も死んでいる。いろんなものが死んでごろごろしている。
これだけ死んでいれば、あるいは死を想わせれば、生きとし生けるものはみな死ぬということに、誰もが思い当たるはずです。
大変健全な姿、光景です。
こういったものこそどんどん見せるべきです。

今、Tvで放送されている子供向けの漫画や実写番組は圧倒的に暴力的で残酷、短絡的で想像性の欠けたものが多いです。これらは親としても見せたくはないのですが、選べないのです。ちびマルコのようなものがあまりに少なく。また一度見てしまうと、中毒気味に惹かれてしまうところがあります。本当に要注意です。


さらに藤原新也の凄さは、コピーにあります。
コピーは今や街にメディアはもちろん、Webに溢れ返っています。
すべて市場にわれわれを連れ出す誘い文句です。
そこへ、、、

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」
「太陽があれば、国家は不要。」
「死体の灰には階級制度がない。」
「つかみどころのない懈慢な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としてはずっと美しい。」
「眠りは、成仏の日のための練磨のようなもの。」
「母の背は、曠野に似る。」
「つらくても、等身大の実物を見つづけなければ、ニンゲン、滅びます。」
「花を真似た花は、花より愛おしい。赤子を真似た赤子は、赤子より愛おしい。」
「黄色と呼べば、優しすぎ、黄金色と呼べば、艶やかに過ぎる。朽葉色と呼べば、人の心が通う。」
「その景色を見て、わたしの髑髏がほほえむのを感じました。」
「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬目の前を過ることがある。」
「日光浴は生命をやしないます。月光浴は死想をやしないます。」
「祭りの日の聖地で印をむすんで死ぬなんて、なんとダンディな奴だ。」
「あの人骨を見たとき、病院では死にたくないと思った。なぜなら、死は病ではないのですから。」

この破壊力です。
上記すべて写真についたコピーです。ほんの一部です。



ちなみにこの写真集の巻頭の言葉。


   ちょっとそこのあんた、顔がないですよ。

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